皆さんは「バウハウス」というドイツの学校を知っていますか?
このバウハウスという学校は1919年にドイツに設立された、デザイン、建築、美術などの教育を行った学校です。
この学校の活動は、現代の美術に非常に大きな影響を残したんです。
今回の記事ではこのバウハウスが設立された背景や、この学校に関わり活躍した人物達について分かりやすく解説していこうと思います。
バウハウスについて興味がある!どんな人達が活躍したのか知りたいという方は是非読んでみて下さい!
バウハウスとは?背景と歴史を分かりやすく解説!
ドイツに1919年に設立されたバウハウス美術工芸学校は、政治情勢、内紛、資金不足などの問題によって二度の移転を行うなどしています。
しかしながら14年間という間に500人の卒業生を輩出し、20世紀当時において最も影響力のある工芸学校として活躍しました。
バウハウスという名前は「建築の家」という意味があり、建築家として有名なヴァルター・グロピウスの案でした。
当時、美術よりも低い地位にあった工芸をもっと高い位置に上げたいという狙いもあったようです。
最初期に講師を務めたヨハネス・イッテンは色彩の考え方や、様々な素材ン使い方などを教えていました。
さらに後任となったラースロー・モホリ=ナジは絵画や写真の制作方法を教えるなどしました。
またヴァルター・グロピウスは政治的圧力が存在する中で、バウハウス工芸展を開催し、国際的な評価を得ます。
しかしながら、こうした評価にも関わらず1925年に学校はデッサウへ移転することを余儀なくされてしまいました。
こうしてできた新バウハウスでは工業デザインよりも、工芸デザインが重視されていきました。
後に更にベルリンへ移転することになり1933年には閉校することになってしまいますが、14年間存続し多くの人材を輩出した優秀な学校といえると思います。
では、このバウハウスにどのような人達が関わってきたのか実際に見ていきましょう。
ライオネル・ファイニンガー
ライオネル・ファイニンガー(1871年7月17日-1956年1月11日)
ー年表ー
1871年:ニューヨークに誕生する。後にベルリンへ移住する
1887年:ドイツを離れ、美術を学ぶ
1888~93年:ハンブルク、ベルリン、パリの美術学校で学ぶ
1919年:バウハウスの設立に参加する。最も長く務めることになる
1937年:ニューヨークで教師をしながら過ごす
もともと音楽の道を志していたライオネル・ファイニンガーですが、美術の道へ進むことを選びました。
主に美術はパリとベルリンで学び、その後挿絵などの仕事で成功を収めます。
ドイツやアメリカで出版契約を結ぶなどキャリアを積み上げていったんですね。
1907年になると絵画の分野に転向し、パリに二年間ほど滞在しました。
その後作風がキュビズムと出会う事で変わっていきました。
1917年に行った展覧会が成功したことで評価が高まることになります。
その後バウハウスのベルリン校でグロピウスに講師として任命され、版画の授業をすることになりました。
ラースロー・モホリ=ナジ
ラースロー・モホリ=ナジ(1895年7月20日 – 1946年11月24日)
ー年表ー
1895年:ハンガリーで誕生
1917年:美術を始める
1919~21年:ロシア構成主義の画家達と出会う
1923~28年:バウハウスの教員として、金属のワークショップを行う
1928年:ベルリン前衛演劇で舞台美術家を務める
1936年:映画「来るべき事物の形状」の背景装置を受け持つ
1939年:自身でデザイン学校をシカゴに創立する
1946年:死去
ラースロー・モホリ=ナジはハンガリーの芸術家として有名です。
もともと大学では法律を学んでいましたが、戦争で負傷して療養していた時に絵筆を取りました。
そのためほとんど独学に近かったですが、写真やコラージュなどを研究を始めていきます。
また、1922年にベルリンで展覧会を開いた際に、ヴァルター・グロピウスによってヨハネス・イッテンの後任に選ばれました。
彼の作品は科学的な方法論に基づくものが多く、電気を使って芸術作品を作った初めての画家とも言われています。
パウル・クレー
パウル・クレー(1879年12月18日 – 1940年6月29日)
ー年表ー
1898年:美術を学ぶためにミュンヘンへ移住
1906年:ピアニストと結婚する
1914年:チュニジアへ旅行へ行き、大きく影響を受ける
1916年:徴兵される
1920年:バウハウスに参画する
1924~25年:個展をニューヨークで開く
1931~33年:バウハウスを退職
1940年:死去
音楽への造詣が深く、ヴァイオリンが得意だったパウル・クレーでしたが、音楽の道ではなく美術の道へ進みました。
1898年にミュンヘンの美術学校で学び、早いころから伝統を否定するような作品を作ります。
1914年にチュニジア旅行へ行くと、グラフィック的な作品から作風が変化していきました。
1920年、クレーはバウハウスへ参画し、それからも膨大な作品を作っていきます。
1つ1つの作品に自ら注釈をつけているのが特徴的です。
まとめ
今回の記事ではドイツの工芸学校である「バウハウス」について、その背景や歴史、関係した人物について解説してみました。
バウハウス自体は14年で閉校してしまいましたが、その意志を継いだ人物たちにより別の学校が設立されたりもしています。
ではでは今回はこの辺で!
また別の記事でお会いしましょう!
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